2018年

9月

12日

津島でら寺巡りと宵の灯籠巡り

9/2、津島でら寺巡りでは7月の好評を受けて、初の年2回開催となる『宵の灯籠巡り』が行われた

九品山蓮台寺(津島市弥生町6)

徐々に暮れていく中、ろうそくの灯りがいっそう際立っていく。

青龍山吉祥寺(津島市中野町7)

帝護山照蓮坊(津島市宝町20)

 

午玉山観音寺(津島市天王通り6-43)

大珠山龍渕寺(津島市瑞穂町1-8)

牛頭山宝寿院(津島市神明町2)

7月に続き、6か寺を巡ってスタンプを集めた方に限定で寄せ書き御朱印の授与がなされた。

 

来年夏の開催まで、あまりに待ち遠しい……と、嬉しい声をたくさん頂いた、九月の宵灯籠。皆様の声にお応えできるよう、でら寺巡りでは今後も様々な企画を構想中。ご期待ください。

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2018年

8月

29日

西方寺の地獄絵図

「橋詰十王尊像」で有名な西方寺(岳翁山(かくおうざん)往生院/津島市天王通り四丁目23)には、十王尊に因んで元禄13(1700)年に作られた掛け軸があり、お盆時期だけ一般公開される――。

 

前回十王尊のお話を伺った時(http://tsushima-deratera.jimdo.com/2018/07/01/西方寺の十王さん/)、安部真誠住職にそう聞いた私たちは、盂蘭盆が来るや否や西方寺を訪ねた。

先ずは、本当にお忙しい中お時間を割いてくださった御住職に、心より感謝を。

 

住職 ちょうど去年、修復したんです。作られたのが元禄年間ですから、300年以上が経っています。100年に1度くらいの割で修復しているので、3度目の修復が終わったばかりということになります。それなりのところに出すと凄く高いんですけど、たまたまご紹介いただいて、1本直すくらいの金額で4幅ともやってくださったんです。

 

住職 ボロッと剥がれちゃってるところもあるんですけど……同じ色が出せないので、補色はしてないです。掛け軸は紙製なので、強いものではないんですけど……過去の天然の色料を使っていますので、色褪せは少ないんですよね。もっとも、年に一度しか出してないので、痛みは少ない方なんでしょうけど。

 

住職 十王さんは、一番から順に並んでいます。上に小さく描かれた仏様が、「本地」といって、本来のお姿だとされています。元々十王さんは儒教や道教の影響が大きいので、冠や着ている物も中国風の特徴がありますね。

 

記者 よく見たら、凄く残酷ですね。

住職 それでも、第一から第五までの方が、まだライトですよ(笑)。子どもの頃は、怖かったですけどね。地獄の苦しみというのは、何百回、何千回、何万回と、殺されては生き返り、殺されては生き返り……ずっと繰り返すというのが、この絵なんですよね。普通だと死んでしまうんですけど、一回死んでるからそれ以上死なないので、ただ苦しみだけを与えているのが地獄なんですよね。

 

住職 これが、脱衣婆さんですね。左にいるのは旦那さんともいわれている懸衣翁(けんねおう)です。脱がせた衣類を枝に懸けて、枝がしなる重さによって価値を調べる訳ですよね。

Q. 脱衣婆の旦那さんは、閻魔大王様という話もありますよね?

住職 その説もあります。脱衣婆さんは人気があるんですね(笑)。

 

住職 閻魔大王の傍には、必ず浄瑠璃の鏡があります。鏡の前に引き出されたら、生前の悪いことをしたのが映っちゃうんです。

 

住職 何故かしら、お地蔵さんが真ん中に描かれているんです。六道輪廻の地蔵尊とか、六地蔵とか……お地蔵さんは6体が一つのセットになることが多いんです。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という6つの世界を走りまわらなければならないということで、6体に分身するんですね。あちこちに行って救済をするのが、お地蔵さんの役目なんです。それで描かれてるんだと思いますけど……えらい小さく描かれてますよね(笑)。閻魔さんの本地はお地蔵様ですから、何故か上にも下にも描かれていることになります。

 

住職 これは多分、煙なんでしょうね。「業川(ごうかわ)」という熱湯で息が出来ないくらい臭い川があるそうですので、臭いを表現してるんじゃないかと思うんです。

 

Q. この鼠は何でしょうね?

住職 ……何でしょう(笑)?涅槃図には、色んな動物が描かれていますけどね。遊び心でしょうか……良く気付かれましたね。

 

住職 どうです……第六からの軸の方が、地獄の責め苦もハードでしょう?火焔地獄に、血の池地獄……でも、亡者たちは死なないですからね。この舌を抜かれるところは、閻魔さんの前に描かれることが多いんですけどね。

 

記者 これは、岩に押し潰されているんでしょうか?

住職 いや……氷ではないかと思います。

 

住職 これは、まさに「火の車」なんでしょうね(笑)。

 

住職 こういうものを子どもに見せて、「悪いことをしちゃいかんよ」と人間が持って生まれた良心に訴えかけるだけでなく、「悪いことをするとこういう目に遭うよ」という戒めのものなんですよね。この絵には、子どもは描かれてないんです。子どもというと、賽の河原でお地蔵さんに守られていくのかと思うんですけど、この世界は大人ばっかりなんですよ。その辺りの詳しい事情は、私にも分からないんですが……この絵が描かれた時代、子どもさんは凄くたくさん亡くなられています。昔ですから、今なら普通に助かられる方でも死んでしまいますし、過去帳を読みあげると、一歳に満たないような生まれてすぐ亡くなった方がたくさん載っています。

 

住職 地獄では、どうしようもない人は永遠に這い上がれないんですけど……初七日に第一の秦広王、五七日(35日)に第五の閻魔王と続いて、七七日(49日)の泰山王で大方決まって、百か日の平等王に多少救済してもらって、最後の三回忌に五道転輪王から「勘弁してやるから、人間界に戻って来い」と、優しいお裁きを受ける人が多いみたいです。人間界は、極楽にも、地獄にも、どっちにも通じるということですね。この何十億という人々が暮らす地球上で少しでも幸福に生きていく為に、それぞれ助け合って自分勝手な行動を慎んで生きていくのが、人間として大切なことです。この絵を通じて、そんなことを思っていただきたいですね。

 

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2018年

8月

25日

吉祥寺の九万九千日参り

古来から、89日に観音様にお参りすると九万九千日の功徳があり、幸せをもたらすといわれている。 

89日、吉祥寺にて「九万九千日参り」が行われた。

 

灯明料を供えたらろうそくをいただき、願いごとを書いて観音様の火をいただく。 

ろうそくを竹灯籠に献灯したら、火が消えないうちに般若心経を唱える。

 

夕刻の、緑に囲まれたお堂でろうそくの灯りの中の読経はなぜか心が落ち着く。

 

読経が終わったら明日葉DOJOへ移動しお手製のお斎(とき)をいただく。本堂の改修も手掛けた米国人建築士ジェフリー氏の設計による道場は和と洋が融合された格別な空間。新しい空間の中に並べられた歴史ある調度品が、計算されたかのように「新」と「旧」をつないでひとつの空間を作り上げている。

終わったところで吉祥寺の留守をお守りされている羽場さんに今日のお参りについて聞いてみた。

 

「九万九千日を365日でわると約270年分になるんです。1代の功徳では終わらないので、つまり他人のために参るということなのかと。」

 

「かつては経済的に恵まれない女性たちが朝までお参りの列を作ったと伝え聞いております。家に帰りたくても帰れない、つらいお勤めをしなくてはいけなかった方たちの心の拠り所だったのではないかと。200年前の女性たちと同じ場所で同じ仏様にお参りをしていると思うと感慨深いものがありますね。」

 

 

※本堂は築200年。平成の大修復を終え、今も建立当時の姿を残す。

本堂中央は阿弥陀如来、向かって左に三十三観音が祀られている。しかし御本尊は本堂の外のお堂のなかの不動明王である。

往年から続く信仰の片鱗が今でも残る貴重な寺院。

場所など詳細は下記。

http://www.kissyouji.jp/rekishi.html

なお、寺院行事のほか、偶数月第1日曜日の「津島でら寺巡り」には門戸を開いていただいている。

是非お参りに訪れていただきたい。

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2018年

8月

14日

西光寺の水落地蔵菩薩像

去る7月15日、津島市主催「津島てら・まち御縁結び」の一環として西光寺にて、修復を終えた愛知県指定文化財地蔵菩薩像の公開と解説がなされました。その様子をお送りします。

解説は西光寺住職伊藤千秋様です。

こちらの西光寺ですけれども1545年、足利時代に京都市左京区にあります浄土宗大本山百万遍知恩寺の塔頭として創建されました。

しかしながら1660年、江戸時代初期に知恩寺の大火災で堂部を焼失し、その後幾度かの移転の際、一時期水落地蔵を御本尊とする水落寺と合体をしていたようですが、その後、明治の初めにはお寺は無住となって長い間この地蔵菩薩立像は京都国立博物館に寄託されておりました。

 

その後明治32年この廃頽していた由緒ある西光寺の寺籍はご本尊の阿弥陀如来と水落地蔵菩薩像とともにこちら津島に移ることが許されました。

水落地蔵菩薩の名は近くで小川が堰を作りそこから水が流れ落ちていたことに由来するようです。

この水落地蔵菩薩立像は愛知県と津島市のご支援を得て平成26年から1年をかけ、解体修理が行われ、仏像製作当初の色彩と文様を取戻し、このたび国の重要文化財に指定されました。

 

以前に行われましたX線の調査で、すでに存在が分かっておりました仏像の体内に収められた納入品につきましては、解体時に全て取り出され、現在は空の状態になっております。

この地蔵菩薩像は高さ160cmの、ひばの寄木作りで右足をわずかに前に出して立っております。

仏像が作られました時期は今から800年以上前の鎌倉時代初期、1187年から93年とされております。

これはちょうど源頼朝が鎌倉幕府を開いた年と重なります。

像様の特徴といたしましてはおおかたの地蔵菩薩像は右手に錫杖、左手に宝珠を持っておりますが、こちらの菩薩像は大変珍しく、両の手を胸の前でまき、ひらを仰ぐ姿をしております。

この特徴をもちますのは国の重要文化財である京都六波羅蜜寺の鬘掛(かつらかけ)地蔵菩薩立像と、この水落地蔵菩薩像の、全国で2体しかないと言われています。きわめて貴重な形をなした仏像でございます。

柄香炉を持っていたかもしれないという推測が成り立つようです。

 

この仏像は東大寺南大門の国宝金剛力士像が運慶、快慶らの慶派の手で製作されたのと同じころの運慶周辺の仏師の手になるもと言われております。

この慶派とは平安時代後期から鎌倉時代にかけての仏師の集団の一派で、当時は奈良を拠点とした慶派を初め、京都を中心に院派、円派、この3派が主流だったようです。

 

 

仏像表面の仕上げの色彩と文様につきましても、身体部分はクリーム色の肉色、着物にあたります納衣(のうえ)の表は黄色、裏は緑青色、袈裟である覆肩衣(ふくけんえ)と腰巻のような裾(くん)は薄茶色、と、鮮やかな色彩が施されております。

その上から精密な切金紋様が描かれております。

また、X線透過写真でしか計り知ることが出来なかった仏像内の納入品につきましては、多数の経典を始め、毛髪、焼かれた骨、めのう、小さな泥造りの地蔵菩薩座像など貴重な資料となるものが数多く納まっておりました。

その中でも、特に貴重な記録として注目されておりますのが、地蔵菩薩印仏です。こちらに地蔵菩薩印仏のお写真の方も展示してございます。

この地蔵菩薩印仏とは地蔵菩薩像の木版スタンプを作りまして、それを、半紙に多数押印して冊子状に綴じたもので、これを使って仏像製作の寄付金を募ったようです。

 

浄財を寄進した人の名前、いわゆる結縁者名をその木版スタンプの裏に墨書きして、そのように集められた紙を紙縒りで2か所留めにし、冊子状に綴じたものが体内から多数見つかっております。

この水落地蔵菩薩像の製作にあたっては、広範囲の結縁活動があったようで、上は貴族などの上流階級から下は農民などの一般庶民まで日本全国に地蔵菩薩印仏を用いて浄財の寄付を集める、いわゆる勧進をしたとみられます。

具体的に勧進が実施された地域は大和の国を始め、摂津、河内、和泉などの畿内、紀伊の国、また、信濃や飛騨などの東山道、若狭、越前、能登方面の北陸道、伊賀、伊勢の尾張方面、および駿河、相模、武蔵、下総、甲斐、常陸の国の東海道、と、主に近畿地方から東の地域において周到な準備を踏まえての勧進が実施されたようです。

 結縁者は概算で4000人にも及ぶそうです。勧進場所は主に荘園、宿場、村落、寺や神社であったようです。

 

 

また、水落地蔵菩薩像の脇の毘沙門天王像も鎌倉時代の作であることが分かっております。

不動明王像は時代が新しく、江戸時代のものと伝わっております。

 

 

以上、このたびの修理事業にご尽力をいただきました和歌山県立博物館伊東史朗館長の論文の中から抜粋引用してご説明をさせていただきました。

この日は、今回新たに判明した内容の概要を中心にご案内していただきました。

 

 なお、これら仏像内にありました納入品101点は現在全て名古屋市博物館に寄託されているそうです。

ただし、一般公開はされていないとのこと。

4月には東京国立博物館で公開される機会があったそうです。再びお披露目の機会があるかもしれませんね。

 

津島の歴史もうかがえる、貴重な機会でした。次の公開がまたれます。

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2018年

8月

13日

氷室家の菩提所・常楽寺

補陀山 常楽寺(津島市天王通り5丁目10)、宗派は曹洞宗。

元中9(1392)年の創建と伝えられる古刹で、代々尾張国津島牛頭天王社(津島神社)神主を務めた氷室家の菩提寺として有名だ。

 

 

「特に歌人でもあった氷室長翁の墓は、津島市指定文化財になっています。正面向かって右の、五輪塔式の墓石が、長翁のお墓です」

 住職は、そう説明された。(指定日:昭和42年9月16日)

 

 

氷室長翁は、天明4(1784)年生まれ。

津島牛頭天王社神主であり、桂園派門下の歌人。

義子・泰長に神職を譲るまでは豊長(とよなが/とよおさ)を名乗り、隠居して長翁(ながとし)と号した。

また、椿園という歌号も持つ。

「さくらはな咲てちるまの暫時はうきよ也けりみよしのゝ山」

という名歌を遺している。

「文久3(1863)年没、とありますね」

御住職は、過去帳を紐解いてくれた。

 

 

本尊は、如意輪観音坐像

 

 

千手観世音菩薩立像と、三十三観音像

 

 

尾張西国二十一番札所の扁額

 

 

御本尊の奥、開山堂には名僧が祀られている。

中央は常楽寺初代の太初継覚和尚、向かって右手は道元禅師(高祖)で、左手は瑩山禅師(太祖)。

御住職は「曹洞宗にとって、生みの親と、育ての親」とお話しされた。

 

 

「先代の住職、私の父親は絵心があって、色々な仏画を描き遺したんですよ」

 

 

「捐舘」は男性、「掩粧」は女性。それぞれ高貴な身分の方の墓銘として刻まれる言葉だそう。

「捐舘」とは、屋敷を捨て去る。

「掩粧」とは、化粧をやめる。との意だという。

 

 

常楽寺は、『津島霊場巡り』の霊場寺院の一つなので、津島を訪ねる際は、寄ってみては如何だろう。

 

 

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2018年

7月

21日

雲居寺の五百羅漢堂

津島市に興味を持った名古屋外国語大学(愛知県日進市)の学生が調査したところ、東海三県の全市町村の中で、津島市の寺密度が最も高いことが分かったとか。

これを記念して、津島市の企画した【津島てら・まち御縁結び】が、2018年7月15日(日)開催された。

 

『五百羅漢像』で名高い、龍宝山 雲居寺(津島市北町32)の 神野住職から、法話を聴くことができた。

曹洞宗について

「雲居寺の宗派は、曹洞宗です。曹洞宗は、總持寺と、永平寺、二つの寺が両本山とされています。当時は、法の流れで言えば、140年ほど前に能登から横浜に移転した總持寺を基としているんですが、總持寺の基本山が福井の永平寺となります。

 今から780年ほど前、福井に永平寺が開かれました。道元という方が、中国で学んできたことを基に色々な教えを広げた道場が、永平寺なんです。ところが、永平寺、道元禅師の教えを直接受けた三代目と四代目で、ちょっとした論争、揉め事がありまして。三代目が若くして納まったことから、歳いった四代目は面白くなく、意地悪をして追い出してしまったんですね。追い出された三代目は仕方なく、金沢に移って大乗寺を開きました。この二代目に就いた方が素晴らしい人で、後に總持寺を開いたんです。

 現在、日本の曹洞宗は、全国に1万5千箇寺を擁する、日本一大きな集団です。浄土真宗という大きな宗派がございますが、本願寺は3つほどに派が分かれておりますので、一宗一派としては曹洞宗が一番多いという事になります。色々な宗派がありますが、中でも座禅をする宗派が禅宗と云い、その一つが私ども曹洞宗だと覚えていただきたいと思います」

 

雲居寺について

「雲居寺を開いたのは、宝山玄珍という人です。開山されてから、20年後に亡くなられている方です。今市場にある興善寺が本寺です。あと11年しますと開創されて600年になる、長い歴史を誇る寺です。

 お寺は、住職だけでは成り立ちませんので、お寺を開くためには開基と申しまして……分かりやすく言えばスポンサーがいます。それが、服部伊賀守宗純という方です。弥富市の五ノ三に服部家の遺構があることをご存知の方もいらっしゃると思いますが、そこに600年ほど前に移り住んだ方で、元々は津島「四家七名字」の出です。

 服部家は代々栄え、宗純公から数えて9代目に当たる人は、服部小平太一忠という方とされています。室町時代末期、織田信長公の馬廻として仕えていたそうです。この雲居寺を護持するだけでなく、弟の服部小藤太と共に信長の家臣として、尾張国津島辺りで一所懸命に働いていた訳です。

 服部小平太は、桶狭間の合戦で敵将の今川義元公に一番槍をつけたと言われております。「服部小平太」という人は二人存在することが分かっているのですが、もう一人は東京のお寺の開基で、しかも没年が天正15年ですので別人かと思われます。信長が本能寺で自刃したのは天正10年6月2日(旧暦)で、その時に小平太の弟・服部小藤太は一緒に死んだとされています。服部一忠はその後、豊臣秀吉、その婿の秀次に仕え、松阪城2代藩主として迎えられています。ただ、秀頼が生まれたために秀次は疎まれて、謀反を企てたとして文禄4年7月15日に切腹を命ぜられました。服部小平太一忠は、その時に連座して詰め腹を切ったとされています。7月15日……旧暦ですが、まさに今日のことですね。今日は、服部一忠の命日とされているんです。

 爾来、この寺では服部家の御位牌を祀っておりまして、それだけではなく敵将の今川義元公の菩提も弔っております。今でも毎朝のお勤めで、両氏を偲んでずっと御供養させていただいています。来年の5月19日には義元公の御位牌も作り直し、服部家の末裔の方をお招きし、法要を行おうと考えております。桶狭間の戦いで今川義元が命を落としてから、来年でちょうど460回忌になります」

「雲居寺は600年の歴史の中で、名僧と呼ばれる方も輩出しています。当寺の22代目、80年ほど前に住職をなさっていた橋本恵光老師……この方は、それまで語られていなかった道元禅師の教えを懇切丁寧に紐解き、戦後、法を失い荒れ果てていた永平寺を立て直した方なんですが……この寺でも老師が厳しい修行を行っていました。私の父が修行しているお寺から雲居寺へ帰ってくると、よく「本山や修行道場よりも、雲居寺の方がきつい」と申しておりました。暇があったら、座禅ばかりさせられたんだそうで。

 座禅は何が良いかといえば、自分自身を見詰めなおすこと、心を穏やかにするということです。難しいことは何もないんです。ただ、両足を組んで、背筋を伸ばす。息をゆっくり吸って、長く吐く。そして、目を瞑らず1mくらい前を見て、ただひたすら黙って座る。これだけなんですよね。これが、座禅なんです。今日は良い機会ですので、「いす座禅」をやってみたいと思います。座禅は、畳の上でも、ソファーやベッドの上でも、腰掛けていても出来ます。まず、背筋を伸ばします。横から見て、骨盤の上の背骨を前に押し出すようなイメージで、そうするとお腹が前に出るような感じになります。そして、胸を大きく反らします。「気をつけ」のような姿勢ですね。頭は真っ直ぐ、少し顎を引き、1m前を見ます。腰掛けていますから足は組みませんが、手は印を結びます。印を結ぶとは「繋がる」という意味がありまして、頭から文殊菩薩の智慧が入り、体から結んだ手、そして足を通じて、五体全てが繋がる、全ての智慧が回るということです。右の掌の上に、左の掌を乗せます。そして、親指を真ん中で合わせます。この形が崩れないようにします。三角形になったり、離れたりせず、中に小さな卵が一つ入るくらいの間隔を空けて、足の上にぽんと置きます。呼吸は、1、2、3で吸ったら、1、2、3、4、5……と、吸う時より吐く時に時間を長く費やしてみてください。ただ、いきなりやり始めるのではなく、徐々に始めます。動いている振り子が、段々揺れも小さくなり、真ん中でぴたりと止まる。それが、正しい形で座るということです。座禅は、「調身」身を調え、「調息」息を調え、「端座」しっかり座る、ということを念頭に置いていただければと思います。座禅中は、目を瞑ってはいけませんし、物事を考えないように、「行雲流水」……行く雲が如く、流れる水が如く、入ってくることを一々自分の中に取り入れないで、流すような気持ちでやっていただくと良いかと思います」

 

道元禅師について

「道元禅師は今から780年ほど前に福井の永平寺を開かれているんですが、その20年ほど前に中国、当時の宋に行って、5年間で色々なお寺を回られています。最後に行き着いたのは天童山 景徳寺という禅寺で、そこにいた立派な指導者・天童如浄という方の教えを学び、印可を受けて御釈迦様から如浄禅師に伝わる法を初めて外国人として受け継いだのが、道元禅師です。

 中国での修行時代、土用の灼日といいますから大変暑い日の昼下がり、お寺の前の石畳の上で、背筋が海老のように曲がって杖を引いた眉は鶴のように真っ白な老僧が、左手に籠を持ち、一生懸命に椎茸を干しておられたそうです。道元禅師が典座(てんぞ=禅院で料理を司る僧侶のこと)老師に「こんな暑い中、御一人で、それも体調も優れないご様子……行者(あんじゃ=若い修行僧のこと)に任せたらどうですか?」言ったところ、老師は一言「他は是れ吾にあらず」即ち、「他人のしたことは、私のしたことではない。私は天童山300人という大所帯の料理長であるから、自らがやらねば誰がやる」と仰ったそうです。続けて仰ったのは、「更に何れの時をか待たん」つまり、「今を逃して、何時やるんだ。椎茸や梅を干すのは、この土用の暑い時季でなければならないのだ」、と。道元禅師は日本に帰り、『典座教訓』という本を書いています。日本で初めて料理マニュアルを書いたのは、道元禅師なんです。

 この他、歯の磨き方、汚い話で申し訳ないですが、用便の仕方……謂わば、ウォシュレットの元祖……こんな事を日本で初めて書いたのも、道元禅師なんです。ただのマニュアルではなく、「半杓水」という禅の教えも学べるようになっています」

羅漢堂について

「当寺には「羅漢堂」があります。五百と十六体の羅漢、そして御釈迦様と、文殊菩薩、普賢菩薩、全部で519体が安置されています。プラス、「賓頭盧尊者」といいまして、本来は五百羅漢に入るんですけど、お酒を飲んでいて御釈迦様の説法に間に合わなかったため羅漢に入れてもらえなかった尊者さんがいます。番外として全身赤く塗られているのを見て、「見せしめのためだ」と言う人もあれば、「お撫で佛だから、さすると悪いところが治る」と言う方もいらっしゃいます」

この日はお参りにいらした方限定でだるま画付き御朱印が授けられました。

 

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2018年

7月

18日

【牛玉山 観音寺】長谷川優 副住職ライブペイント

去る7月15日(日)「津島てら・まち御縁結び」で津島のゲストハウス「げた家」にて行われたライブペイントの様子です。2時間のパフォーマンスをスライドショーにまとめてみました。

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2018年

7月

16日

夏、宵の津島でら寺巡り(2018.7.1)

でら寺巡り、7月は特別企画『宵のでら寺巡り』。

参加六箇寺の、昼と夜の表情の違いをお楽しみください。

観音寺

   津島市天王通り6-43-1

吉祥寺

   津島市中野町7

宝寿院

   津島市神明町2

龍渕寺

   津島市瑞穂町1-8

蓮台寺

   津島市弥生町6

照蓮坊

   津島市宝町20

そして、もう一つ特別企画。

今回、参加六箇寺すべてのスタンプを集めた方には、特別に『寄せ書き御朱印』が配布されたのでした。

津島でら寺巡り、今回もよくお参りくださいました。

次回もまた、お参りくださいませ。

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2018年

7月

01日

西方寺の十王さん

「お寺によって、生き方……運営の仕方があるんです。京都なんかのお寺は、観光を主にやっていますし、檀家さんを大事にしてるお寺は、法要や法事ばかりで観光は相手にする時間がありません。お寺にいて、お参りに来られる方の相手をしてやっていければ本当は一番の理想なんですけど……」

 

そういって笑う安部真誠住職に、西方寺(岳翁山 往生院:津島市天王通り四丁目二十三番地)について、そして本堂に安置されている十王について、お話を伺った。

「十王信仰は、津島独自のものではないです。ただ、分かっているだけで津島の旧五ヶ村(米之座、堤下、今市場、筏場、下構)がそれぞれ十王さんを持っていて、一ヶ村は焼けて失くなっているので、4つの十王さんが現存してます。

全国にも、十王さんはあります。調べてもらったら、「十王町」、「焔魔堂町(えんまどうちょう)」、そういう地名が残っています。地元の人に由来を聞いても「知らん」と言われることも多いんですが、昔あったのが燃えてしまって名前だけ残っているということでしょう。十王さん……十体の王様の中で、一番中心が閻魔様ですので、閻魔さんだけが残り閻魔さんだけを祀っている所もあります。京都にも有名な「千本ゑんま堂」(京都市上京区)がありまして、沢山の人が御参りしています。引接寺(いんじょうじ)という、小野篁(おののたかむら)所縁のお寺です」

 

「日常生きていると、悪いことだと知りながらどうしても犯してしまう罪があります。西方浄土へ旅立つ時には、少しでも楽に極楽往生を願いたいのが、皆の最期の希望であると思います。そこには一つ、医学もあるんですよ。現代では重病で亡くなるにしても、色々な痛み止めなどの苦痛を和らげるものがあるんですけど、何百年も前は何もありません。亡くなる事というのは、それこそのた打ち回るような状況が普通にあったと思うんですよ。そういう光景を見ていた昔は、死という物への恐怖感が今より遥かに高かったはずです。せめて死の先は助けてもらいたい……そんな思いで、十王さんを一生懸命大切にしていくことだったんだろうと思います」

 

「今の天王川公園の北にある秋葉神社に前の西方寺がありまして、今は橋詰町ですが昔は堤下だったんですね。この十王像は、その堤下の村の中でお祀りをしていた十王さんなんです。江戸時代の初め頃には、津島さん……津島神社へお参りする方々の為の旅籠がたくさん並んでいた場所でした。

そんな環境ですから何回か火災がありましたが、西方寺も類焼によって燃えて、再建して……また燃えて、再建して……また燃えて、もう再建が出来ないということで、橋詰町を去って、今の場所に移ったんです。

ここは尾張藩の役所跡と言いますか……その昔は、ここに布屋城というお城があったんですけど、その城址に尾張藩の管理した役所のお屋敷があったんです。津島神社に参拝されるお役人の方たちの定宿になっていた関係で西方寺は尾張藩と親しかったので、譲り受けて移ってきたんですね。その時、どういう訳か十王さんも一緒に移ってきたということです」

 

「昔の木造というのは、全部寄木です。一つの木を彫って作る訳じゃなくて、それぞれパーツになってますので、実は首が抜けたりします。膠という接着剤を使っていますが、何百年も経てば取れてしまいますので、酷い状態だったんです。ここの本堂を建て替える時、縁あって京都の仏師さんに頼み込んで直してもらいました。古いながらも色は残っておりますして、新しく色を塗り替えると古さが失われてしまいますので、なるだけ古い色は残して薄っすらと補色してもらってます。仏師さんは「お顔の表情にしても、良い作品ですね」と言ってくださいました」

「一番(秦広王)、二番(初江王)、三番(宋帝王)、四番(五官王)までは、人を殺す、嘘を言う、色情に狂う、人を陥れる、嘲る、悪口を言う、二枚舌を使う……そういう悪い罪をどんどん「そうじゃないだろう」「正直に言えよ」と追及していくんです」

「五番が閻魔大王なんですが、「お前は正直に述べたのか?」と聞かれますと、怖いから嘘を吐いてしまいます。でも、閻魔さんの横には必ず浄玻璃鏡がありまして、鏡に全部映っちゃうんで、免れることはできないんです。嘘を吐くから、罪がもう一つ増えちゃって、舌を抜かれるんです。ですが、閻魔大王は、地蔵菩薩の化身なんです。閻魔さんとお地蔵さんは、表裏一体なんですね。自分は地獄に落ちる覚悟で正直に述べた人というのは、全部閻魔さんが救ってくれるんです」

「お地蔵様も持っておられる錫杖は、歩く時に突いて使います。そうすると、音が出ますね。これは、地面の生き物たちに「これからそっちを歩くので、気を付けなさい」という仏様の慈悲なんですね」

「閻魔さんを境にして、六番(変成王)、七番(泰山王)、八番(平等王)、九番(都市王)、十番(五道天輪王)は、救済の仏様なんです。「罪を犯してきたものの、お前はこんな良いこともした」「誰かを助けた」ということを見つけてもらえるんです」

「正渡河婆(脱絵婆)は、十王の数には入っていないんですが、主演女優賞ですよね。かなりの存在感があります。私も、小さい頃は怖かったです。閻魔さんの奥さんとも言われています」

「これは、掛け軸を額装にしたものです。箱を見ると、「元禄十三辰(1700)年」とあります。「橋詰町」とあるように、西方寺は元々橋詰町にあったんです」

「西方寺を開いた方と、寺を再興した住職が描かれています。この後者の方の弟子が当寺の十二世で、謂わばお師匠さんの功徳のために作った掛け軸だったんでしょう。ちなみに私は三十世ですから、十八代前の頃ですか。

正面に描かれているのは、地蔵菩薩ですね。向かって右が弁財天で、左が毘沙門天でしょう」

「その他、うちの寺に十王さんを描いた掛け軸が4つあります。大きいものですし出すのが大変なんですが、毎年8月、その年によって変わりますが、8月7日~15日だったら確実に掛けております。防犯上鍵を掛けておりますので、間近でご覧になりたいのであれば、連絡をくださってから来ていただくと良いでしょう。

地獄絵というのは、人が生きていく上で、「悪いことをしちゃ、いかんよ」「罪は償うことになるんだよ」という仏教で言う因果応報を教える、一つの戒めのためにあるんだと思います。

うちは浄土宗なので、阿弥陀仏の信仰です。「念仏往生」……念仏を唱えたものは、必ず阿弥陀さんの御救いを受けて極楽に行けるということです。念仏を唱えれば、今までの罪、穢れは悉く取り消されて、往生できるということなんです。そういうことからすると、浄土宗的には「地獄絵なんかは必要ないんじゃないか?」となるんですが、ここのお寺に入られる方の全てが浄土宗の信者さんではないので、一般論としての仏教観を示すということだと思います」

「私の住民票があるところは、滋賀県の大津市なんです。滋賀には30年住んでいて、縁があって自治会長の役を引きうけていたりで(笑)。

生まれは津島なんですよ。津島高校を卒業して、京都の佛教大学に行ったんです。佛教大学は浄土宗の学校で、一応4年間で卒業しました。この寺は父親が住職をやってまして、一人でも有り余る感じでしたので、私が帰ってきても仕事が無さそうで……帰ってきて、何か他の仕事との兼業も考えたんですが、全く違う畑を両方掛け持ちするのは自分の力量では無理だと思ったんですね。出来れば、違う場所にいても同じ畑でやっていきたかったというのがありました。それで、こっちに帰ってくるより京都に留まったんです。大津は京都の隣町です。

10年前に父が亡くなったので、津島に戻るようになったんですが、なかなか家庭の人たちは一緒について来てくれない(笑)。困ったなと思ったんですけど、何とか一人で動き回ってます。京都には浄土宗でも全国から人が集まってきますし、色々な情報、刺激がここにいるよりは溢れています」

「本尊の阿弥陀如来ですが、仏師さんに胎内は煤だらけだと言われました。特に当寺のことは話してなかったんですが、「何回も火災に遭ってますね」と」

「仏像というのは鎌倉時代くらいが多いんですけど、仏師さんによると時代によって作り方に特徴があるので、ある程度は判断できるそうです。うちのご本尊も中身は燃えてしまっていたので正確には年代を特定できないんですけど、阿弥陀さんの形から判断すると鎌倉時代より古いものだと思われるそうです。平安時代の仏像というのは非常に体が細くて薄く、顔の彫りが浅いらしいんです。この阿弥陀さんにはそんな特徴が出てるので、非常に古い仏像の可能性が高いそうです」

「それで、私は仏師さんに聞いたんです。「でも先生、この寺は室町時代に出来た寺なんですが、何故それより古い仏像があるんでしょう?」と尋ねると、鎌倉から室町に掛けては、朝廷の許しが無いと仏像を作ることが出来なかったそうです。朝廷は、仏教を恐れていたんですね。お寺に火が出ても、仏像だけは持ち出す……命に代えてでも仏様は守るという人が世の中には沢山いらっしゃったんで、仏像だけは何とか残ります。お寺が焼けると、仏様はどんどん引っ越すことになるんです。このお寺が建てられた時、この仏様は既にあって、縁あって祀られたということなんじゃないかと思います。ご本尊は、必ずしもそのお寺が建てられた時に作られるものではないんですね」

「第二次大戦の頃は、昭和七年生まれのうちの父親が「何かあったら持って逃げる」役だったそうです。ある時慌てて持って出た時に、引っ掛けちゃってポキンと折ったそうです(笑)。この右肘のところです」

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2018年

6月

02日

蓮台寺ドローン撮影

九品山 蓮台寺

    (津島市弥生町6)

 

ドローンにて空撮してみました。

滅多に見られない空からの寺院の様子をお楽しみください。

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